小山泰朝の子の氏朝が結城満広の養子に迎えられるなど、小山氏と結城氏とは親密な関係にあったが、満泰の子の小山持政の代になると、小山氏は勢力を盛り返し、結城氏から離れて独自路線をとるようになり、室町幕府と鎌倉府が対立した永享9年(1437年)の永享の乱では足利持氏に味方した結城氏に敵対し、幕府方に味方した。永享の乱で持氏が敗死したが、結城氏朝が持氏の遺児兄弟を擁して永享12年(1440年)に結城城で幕府に対する兵を挙げた(結城合戦)。このとき結城氏が一族の惣領的な地位にいたため一族の多くは結城方として幕府軍と戦った。そのなかで小山氏の持政は幕府軍に味方して活躍した。結城合戦は幕府軍の勝利で結城氏は没落した。合戦後、持政は下野守に任ぜられるなど自立した。嘉吉元年(1441年)に義政以来、久方ぶりに下野守護に復帰し小山氏は宗家断絶後の復興を成し遂げたのである。鎌倉府が絶えると上杉氏の勢力が強大化した。それに対して多くの関東の諸将を持ち、室町幕府に鎌倉府の再興を願った。足利持氏の遺子の足利成氏が赦免されて鎌倉公方として下向した。しかし、新公方成氏と上杉氏がうまくいくはずはなく、享徳3年(1454年)、ついに成氏が側近に命じて関東管領の上杉憲忠を殺害し、関東地方は公方成氏派と管領上杉氏派に分かれて対立し享徳の乱と後に呼ばれる争乱が始まった。この乱では持政は一貫して公方成氏を支持して活動し、享徳4年(1455年)には管領上杉氏派の同国の宇都宮氏と戦っている。公方成氏の信頼を得た持政は目覚しい活躍を見せた。成氏にとって持政は偉大な後見人となっていく。しかし、形勢は幕府が積極的に介入してきたことで、成氏は鎌倉を維持できなくなり、成氏は持政を頼って持政の勢力の強い古河に本拠地を移した。そのため成氏は古河公方と呼ばれるようになる。成氏は、小山氏、結城氏らの支援を得て関東管領上杉方と対峙した。幕府も長禄元年(1457年)に成氏にかえて鎌倉公方として、将軍足利義政の弟の足利政知を関東へ下向させた。しかし、成氏を支持する小山氏、結城氏らの勢力を恐れて鎌倉へは入らず、伊豆国の堀越にとどまった。その結果、成氏は古河公方、政知は堀越公方となった。それらの現状は、上杉氏の勢力と小山氏、結城氏の勢力が均衡を保っていた結果であった。強大な上杉氏に対抗するだけの勢力を有するまでに小山氏をしたのは持政の手腕であった。享徳の乱の間に嫡子の氏郷と嫡孫の虎犬丸を病気で失ったために、持政が老齢にもかかわらず小山氏の当主として成氏を助けて、各地を転戦して上杉方の軍勢との合戦を続けた。長享4年(1460年)、寛正5年(1464年)、文正元年(1466年)と将軍義政から再三にわたって帰順の命令がきた。それでも持政は頑として拒絶し、成氏の支持を続けた。文明3年(1471年)に4度目の帰順の命令が持政にきた。多くの将兵が傷つき、子や孫を失った持政の強靭な精神も一族、重臣の離反の危機などをうけて、ついに持政は幕府の命令に応じた。その後の持政の動向は不明だが、この年の内になくなったものと思われる。事実上、ここの小山氏は絶えた。その後も、名目上の当主は存在したようだが語るべき存在ではなく、歴史の底辺に沈んでいった。持政は最後の小山氏の惣領たる堂々たる武将であった。
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一代の英傑、小山持政の後、またも小山氏は嫡流が絶えることとなった。そのため、一族の有力庶家の山川氏から養子のかたちで家名を存続させた。その養子が小山成長である。偉大な英傑の死によって後ろ盾を失った古河公方の足利成氏は文明10年(1478年)に関東管領の上杉氏と和睦し、その後、文明14年(1482年)には幕府とも和睦した。このことによっておおよそ30年間も続いた享徳の乱は一応の終焉を迎えた。しかし、それは新たなる争乱までの僅かな休息に過ぎなかった。